2017年06月30日
地域再生
HeadLine 編集長
中野 哲也
岡山県中西部の中山間地に位置し、広島県県境に接する高梁(たかはし)市。広域合併によって市域は約547平方キロに達し、東京・山手線の内側面積の8個分以上になる。だが、かつて5万人を超えていた人口は約3.2万人にまで減少した。少子高齢化が加速する一方で、「備中の小京都」は「歴史の証人」というべき観光資源に恵まれており、それを活かしたユニークな街づくりが官民一体で進められている。
JR伯備線・備中高梁駅から車で山間を上っていくと、40分ほどで吹屋(ふきや)ふるさと村(高梁市成羽町)に到着した。通りに足を踏み入れた瞬間、魔法にかかったかのように、「ゾクッ」というショックを受けた。ベンガラ色と呼ばれる赤銅色の鮮やかな屋根の古民家が、整然と軒を連ねていたからだ。時間がゆっくりゆっくり流れ、町並みは日本の「昔」をぎっしり詰め込む。まるでタイムカプセルの中にいるようだ。
吹屋は標高550メートルの山間部にあり、陸の孤島のような集落。だが、町の歴史は1200年を超える。9世紀初め銅山が発見され、戦国時代は尼子氏と毛利氏が熾烈な争奪戦を展開した。江戸時代は幕府直轄の天領となり、住友財閥前身の泉屋などが銅を採掘。明治維新直後、岩崎弥太郎の三菱が銅山を買い取って経営を近代化し、吹屋は日本三大銅山の一つとして繁栄した。
それに加え、ベンガラ(「弁柄」「紅殻」とも表記)が吹屋に巨万の富をもたらした。硫化鉄鉱の良質で豊かな鉱脈が見つかり、それを元にベンガラと呼ばれる鮮やかな赤色、あるいは褐色をした顔料の生産が18世紀初めに始まったのだ。ベンガラは九谷焼や伊万里焼など全国各地の高級陶磁器の絵付けや重要建造物の塗装などに使われ、吹屋は国内最大の生産拠点となる。
その結果、江戸時代半ば以降の吹屋には豪商が出現。彼らは豪邸の建築を競い合う一方で、当時では大変珍しいことに、町並みに統一デザインを導入した。すなわち、石見(いわみ=今の島根県西部)から赤褐色の石州瓦(せきしゅうがわら)を大量購入し、町全体をベンガラ色で染め上げたのである。画期的な民間主導の「都市計画」によって、吹屋に欧州のような煉瓦色の町並みが生まれたというわけだ。
しかしながら、ベンガラ生産は1960年代半ばに途絶え、1972年には銅山も閉山。吹屋は二大産業を失い、過疎化の波に呑み込まれた。赤銅色の町並みの維持も難しくなったが、地元関係者の努力で今日まで受け継がれてきた。行政もサポートに乗りだし、岡山県は1974年に吹屋を「ふるさと村」に指定。国も重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に選定して支援する。
それでも、町並みの維持は並大抵ではない。人口減少・高齢化が加速し、集落の人口は300人を割り込んでいる。吹屋ふるさと村の「村長」を務める戸田誠さんは「町の会合に出るのは80歳代が主体。64歳のわたしなんか若者扱いですよ」と苦笑する。戸田さんは元教員。小学校校長を定年退職後、「育ててもらった吹屋の町並みをどうしても後世に残したい」と立ち上がった。今は観光ガイドから移住者の受け入れ、イベントの企画まで一手に引き受けている。さらに主(あるじ)を失った古民家を引き取り、夜でも楽しめる飲食店とゲストハウスに再生しようと汗を流している。
若年層の流出に悩まされてきた吹屋だが、最近は町並みに惹き付けられて移り住む人も現れている。小倉邦子さんもその一人だ。岡山県新見市で整体を仕事にしていたが、今は「下町ふらっと」でベンガラ染めに精を出す。「煉瓦色の町並みに一目惚れしてしまい、思い切って移住しました」―。小倉さんらはTシャツやストールなどを一つひとつ丁寧に、味わい深い赤銅色に染め上げていく。代表の仲田芳子さんは「完全に手作業だから同じものはありません。雨の日は染物を干せませんから、店はお休みです」―。ここで働く女性はみな若々しく、笑顔がキラキラ輝いていた。
吹屋から市街地に下り、高梁市が誇るもう一つのキラーコンテンツ「備中松山城」に向かう。国から重要文化財の指定を受け、天守の現存する山城では日本で最も高い所(標高430メートル)にそびえる。秋~冬の早朝に運が良ければ、「雲海に浮かぶ天守」を見ることができる。外国人の間でもその幻想的な姿が人気を呼び、またNHK大河ドラマ「真田丸」でも映像が使われたため、来訪者は過去10年間で約2万人から約10万人に増えたという。登山道に入ると急坂が続き、息切れしながら「難攻不落の名城」を実感した。
築城は1240年にさかのぼり、江戸時代後期からは備中松山藩の板倉氏が城主に。幕末、藩主の板倉勝静(いたくら・かつきよ)は将軍・徳川慶喜から筆頭老中として重用される。だがそのために明治維新では朝敵となり、禁固刑に処せられる。藩名も四国の伊予松山藩と紛らわしいため、高梁藩に改称されてしまう。
その際、勝静の家臣で陽明学者の山田方谷(やまだ・ほうこく)の尽力により、備中松山城は無血開城となった。そのおかげで「雲海の山城」は破壊されずに生き延びたから、高梁市民は今も方谷のことを「先生」と呼び敬愛して止まない。
1805年、方谷は武家から落ちぶれた農商の子として当地に生まれた。神童として知られ、4歳で大人顔負けの達筆を披露し、5歳になると新見藩の儒学者・丸川松隠の塾に入門。8歳で「論語」を読破していたという。京で朱子学、江戸で陽明学をそれぞれ学んだ後、備中松山藩に帰り、桑名松平家から養子に入った板倉勝静の教育係を任された。
藩主になった勝静は方谷を現代の最高財務責任者(CFO)に当たる元締役(もとじめやく)に起用し、藩士の贅沢がたたって危機に瀕していた藩の財政改革を命じた。当時の備中松山藩の歳入は公称5万石でも実際は1.9万石にすぎず、大坂の商人から巨額の借金をしていた。このため方谷は「上下節約」の目標を掲げ、痛みを伴う大改革に着手。藩士の給与を削減したほか、宴会・供応・贈答・絹織物着用などを禁止した。自らの給与も中級藩士の水準まで引き下げたという。
歳出全般にメスを鋭く入れる一方で、方谷は歳入を大幅に増やす成長戦略も立案・実行した。鉱山開発によって砂鉄を採り、備中鍬(くわ)に代表される農具や刃物などを生産。タバコや茶、柚子(ゆず)といった特産品を育て上げ、藩の専売収入を飛躍的に拡大したのである。方谷の改革着手からわずか8年で備中松山藩は借金10万両を完済し、逆に資金10万両を蓄えたという。方谷は全国から集まった門弟に改革の要諦を授け、その中の河井継之助は越後長岡藩に帰って藩政改革を断行した。
また、方谷は西洋式の兵法を導入し、軍制改革も推進した。士農工商の身分制度を打ち壊して「農兵隊」を組織し、これが長州藩・高杉晋作が組織した「奇兵隊」のモデルになったという。購入した米国製の帆船は江戸への特産品輸送に使うだけでなく、有事の際は軍艦に転用できるようにした。こうした先進的な改革が実を結び、5万石の備中松山藩は20万石クラスの大藩に匹敵する軍事力を備えるようになった。【注】山田方谷生誕200年記念事業実行委員会「山田方谷物語」を参考にし、一部を引用させていただきました。
「備中の小京都」といわれるように、高梁市の中心部には方谷が活躍した時代の町並みが残されている。石火矢町ふるさと村の武家屋敷には、今も江戸時代の空気が漂う。このほか、築100年を超える尋常高等小学校の校舎(現郷土資料館)や醤油で財を成した豪商の邸宅(現商家資料館)、備中松山城が外堀とした紺屋川筋美観地区、映画「男はつらいよ」のロケ地となった薬師院...。コンパクトな市街地に「歴史の証人」がひしめき合う。
まるでタイムカプセルのように、この街は多数の貴重なコンテンツを見事に維持している。その理由を尋ねると、高梁市の近藤隆則市長からは「揺れない安全安心な街なんです」という答えが返ってきた。地盤が安定しており、日本国内では大地震の発生する確率が最も低い地域の一つとされるのだ。実際、最大震度7の阪神・淡路大震災(1995年)や同6弱の鳥取県中部地震(2016年)の際も、高梁市は同3でとどまったという。「揺れない街」の知名度が向上すれば、リスク分散や事業継続計画(BCP)の観点から、産業界が高梁市に大きな関心を寄せるかもしれない。
山田方谷の発揮した進取の精神を受け継ぐかのように、近藤市長はユニークな施策を展開している。今年2月にはJR備中高梁駅に隣接する形で高梁市図書館をオープン。入館者は開館からわずか3カ月で20万人を突破し、年間目標を達成した。その秘密の一つが併設されたお洒落なカフェ。近藤市長は「スターバックスが国内出店した街の中で、最も人口が少ないのが自慢です」と笑みを浮かべる。図書館の運営をカルチュア・コンビニエンス・クラブに委託し、蔦屋書店や観光案内所もある。図書館は約12万冊の蔵書を抱え、年中無休で朝9時から夜9時までオープンしている。
来館者のおよそ6割は倉敷や総社、新見などの市外から。例えば、倉敷市民が高梁市図書館で本を借りた場合、倉敷市内の図書館で返却できる。岡山県西部を流れる高梁川を共有する7市3町がスクラムを組み、共同で施策を展開しているからだ。観光や教育・子育て、農業など幅広い分野で発展を目指す「高梁川流域連携」は、市町境を越えて少子高齢化に立ち向かう行政の挑戦である。
近藤市長によると高梁市の人口動態は現在、1日に2人亡くなり、2日に1人生まれる計算になるという。市は少子化・子育て対策に歯を食いしばって取り組み、移住者の受け入れも進めているが、人口減少にブレーキを掛けることは極めて難しい。このため、限られた資源を最大限有効に活用するため、市長は図書館に象徴されるように中心部でコンパクトシティ化を推進する。
その一方で、広域合併前の各町の役場所在地も定住圏として維持し、ダイバーシティ(多様性)を尊重している。山間部の「買い物難民」を救うため、移動図書館車にパンや日用品を積み込んで販売したり、診療所の2階を高齢者向け住宅にしたり...。「すべてのお年寄りに市街地に住めと言うのは無理。とはいえ、広い市域全体に何でもかんでも用意するのも無理なんです」―
近藤市長と同じ悲痛な叫びは全国各地から聞こえてくるし、これからは大都市圏でも人口減少が本格的に始まる。定住人口を増やせないなら、国内外からの観光客など交流人口を拡大するしかない。その点、高梁市は「吹屋ふるさと村」と「備中松山城」という二大キラーコンテンツを持ち、潜在能力は決して低くない。
そして何よりも、「方谷の末裔」の人懐っこい開放的な市民気質が魅力である。撮影しながら街中を歩いていると、お年寄りや高校生が笑顔で「ご苦労さんです」「こんにちは」と声を掛けてくれる。全国を取材しているが、こういう街にはそうお目にかかれない。「ひと・まち・自然にやさしい高梁」を目指す市長の街づくりの展開に期待したい。
(写真)筆者 PENTAX K-S2
中野 哲也